2022年01月23日16:44
聖書の解釈のお勉強で、
「わたしらが、あ~だ、こうだと言ってても、実際にはイエスさまは、アラマイ語で話され、聖書はヘブライ語、ギリシア語、コプト語、ラテン語でしか残されていない。」
「僧侶から聞いたんだけど、仏教もサンスクリット語の原典が中国語に翻訳され、それが日本に伝わった。 口伝の場合、テープおこしで間違うことがあるんだって。同音異語とか。」
テープを聴きながら文字におこした文章が原稿とだいぶ違っていた時がある。
耳で聴いた事を正しく伝える事の難しさを実感する。今の世の中、テープ、DVDで何十編となく聴き返しても間違うのです。日本語で、です。
仏教のお経は、如是我聞(にょぜがもん)で始まるものが多いのですが、「我は其(そ)の如く聞きました。」とお釈迦さまの説かれたお教えを耳で聴き暗記したものを、数百年を経て書き留められたものが今に伝えられている。
サンスクリット(古代インド語)を中国の漢字で当て字にしたものが多いのですが、
例えば、「こうしょう」を国語辞典で調べると「交渉」「口上」「考証」「高尚」「口証」と似たような意味や「哄笑」「咬傷」「工商」「鉱床」と17項目も載っている!
誠の文を目にすることの有り難さに思いを馳せます。
聖書に記されている言葉ではなく、タイムリーに、イエスさまのお話を聞きたいものだ!
「肉体を持たれたイエスの話を、アラマイ語を理解しているわたしという設定で聞きたいものだ~!」
辛抱強く聞いていた神父の額に青筋はたつかと思いきや、
「僕はフランス語の聖書を持っています。日本語の聖書は持っているが、すらすら読めません。皆さんが聖書を読む言葉は聞こえます。理解できます。だけど、フランス語が第一言語です。」 (それがどうした?)
に、神父はこう言うのである。
「日本に来たおかげで、僕は聖書の素晴らしさを知りました。 聖書には、1つの文章に番号があります。引用しなくてもインデックス(付箋)となります。言語が違っても、素晴らしいシステムです。 君たちがフランスの教会に来て、ミサに参加します。目次さえ判れば、あとは数字、番号で日本語の聖書を開きながら、フランス語の朗読も理解できるでしょう。これは、神の恵みです。」
そして、続けるのである。
「『イエスさまがおられない!』と何度も言っているようですが、イエズスはおられます!エマオに現れたイエスの話(ルカ24,13―35)は知っていますか?」
「エマオでのお話は、イエスさまの弟子が師を見たってことでしょう?」
そして、神父さんは話すのである。
イエスに生きているうちに会いたいと願いながらも、タイミングが悪く、会えなかった男の話を。
絵本になったそうだが、男が天に召される前に教会の鐘が鳴った。
だが、イエスがイスラエルに肉体を持っておられた時に、「キリスト教」もキリスト教の教会もなかった。だから考証的には史実的にはおかしいのだが…
そこに天使が現れ、
イエスに会いたいと願ったが、突発的にやぼ用が入り、人助けをし、参集しようとすると運悪く、イエスはその街を発った後だった。 せめて、ゴルゴタの丘での十字架を背負われるイエスの姿を一目でも見たいと願ったが、老婆を助けている間に…。で、駆けつけると、イエスは十字架から降ろされた後だった。
そんな男に天使は言うのである。
「あなたはもうすでに主イエスに何度も会っていますよ!」
ブログ掲載可の画像
その後、クリスチャンに肉体を持たれたイエスにお会いしたいと願いながらも出会いを持てなかった男の話をしたところ、『4人目の博士』の伝承として、渡辺和子さんが書かれた物語を見せてくださった。
要約すると、
実は、3人の博士の他に、もう1人、星を見て、医師の仕事も妻子も捨て、全財産を売り、赤子イエスに捧げるために、高価な真珠を求め、ベツレヘムへ旅立ったアルタバル。 アルタバルは、道中で病人を見かけ手当てをしてやり、他の3人の博士に遅れてしまった。ベツレヘムに着いた時には、イエスの家族はナザレに向かった後であった。
アルタバルはイエスを追って旅をしますが、その行く手にはいつも、病人、生活ができずに悪事を働く人々がいた。アルタバルは、彼らに惜しみなく手を差しのべ、共に生活をした。そうして30数年が過ぎた頃、 「イエスが十字架につけられる」この報せに、すでに年老いたアルタバルは、これを最後の機会と、肌身離さず持っていた真珠を手にカルワリオの丘に向かった。それなのに、その途中、また哀れな女と出会い助けるために、真珠を手放してしまうのです。イエスは十字架上で息を引きとります。
嘆き悲しむアルタバルに、イエスが現れ、優しく言うのでした。
「お前は私に逢えなかったというが、何度も何度も逢っていたのだよ。私の小さい兄弟姉妹の一人にしてくれたことは、他ならない私にしてくれたのだから。」
渡辺和子さんのコラムを、仏教の僧侶に教えました。
「アルタバルは、光明皇后様のようなお方ですね!」
奈良時代の聖武天皇の妃で、藤原氏の娘で民間初の両親が皇族でない皇后。 地震、疫病、飢饉、反乱のオンパレードの混迷にあって、光明皇后は仏教に帰依し、公共事業を始めます。東大寺、国分寺の建立、興福寺、法華寺、新薬師寺など、多くの寺院を整備し、貧しい人たちに施しをする「悲田院」、病院の「施薬院」を造り、慈善事業に尽力。 伝説の域を出ませんが、光明皇后がライ病人の膿を口で吸い出したら、紫雲がたなびき、ライ病人は黄金の光を放ち、消え去った。阿閦如来(あしゅくにょらい)だった。
マザーテレサも、「病める子は病めるキリスト飢える子は飢えたキリスト」とおっしゃっていましたね。日本では、蟻の町のマリアこと北原怜子(さとこ)さん、ハンセン病人に尽くされた井深八重さんがおられますね。 なかなか、目のうつばりを取り除くことは難しいものだ。
ボランティア、善行を施している方々は、無条件で尊敬するが、クリシュナムルティは、「自らを知ることだ。自らの内に分け入ることだ」と徹底した自己知を訴えた。
わたしは、口先だけで高尚なことを言い、行動しない人が大嫌いであるが、名知さんの話を聞いた今は、クリシュナムルティの「個人の変容が社会の変容である」が身に染みた。
(クリシュナムルティのスキャンダルは、彼が有色人種、インドの言葉を忘れ、中途半端に白人社会に受け容れられたこと、『キリストが内に入っている』と称されながらも、献身的、慈悲深い面が弱さとして出たのが原因だったと思う。)
名知仁子(さとこ)さんは、国境なき医師団の医師で、ミャンマーのカレン族やロヒンギャ族に医療支援をされてきた方。ミャンマーでは国民の70%が農村で暮らし、上水道が使える人々は10%と言われる、民族、宗教の対立もある。無医村の医療巡回、保健衛生指導の活動をされています。これだけでも素晴らしい、感動なのに、ボランティアが定着しないことに対して、「来る者は拒まず。去る者は追わず」(辞めてゆくなら仕方がない) (忙しいから続かない。それぞれの事情で離れていったこと)と考えていたようです。
でも、自分ひとりではできない。関わりの鋳型を変えようとしたところ、協力者はいたそうです。自身の大病で進退きわまった時もある励ましの一言で、道が見えたそうです。
神の摂理として、導かれている。
彼の地、カナンの地はどこにあるのだろう。どこへ向かうべきか…
イエスに会えなくても すでに出会っていた4人目の博士≫
カテゴリー │心理学
聖書の解釈のお勉強で、
「わたしらが、あ~だ、こうだと言ってても、実際にはイエスさまは、アラマイ語で話され、聖書はヘブライ語、ギリシア語、コプト語、ラテン語でしか残されていない。」
「僧侶から聞いたんだけど、仏教もサンスクリット語の原典が中国語に翻訳され、それが日本に伝わった。 口伝の場合、テープおこしで間違うことがあるんだって。同音異語とか。」
テープを聴きながら文字におこした文章が原稿とだいぶ違っていた時がある。
耳で聴いた事を正しく伝える事の難しさを実感する。今の世の中、テープ、DVDで何十編となく聴き返しても間違うのです。日本語で、です。
仏教のお経は、如是我聞(にょぜがもん)で始まるものが多いのですが、「我は其(そ)の如く聞きました。」とお釈迦さまの説かれたお教えを耳で聴き暗記したものを、数百年を経て書き留められたものが今に伝えられている。
サンスクリット(古代インド語)を中国の漢字で当て字にしたものが多いのですが、
例えば、「こうしょう」を国語辞典で調べると「交渉」「口上」「考証」「高尚」「口証」と似たような意味や「哄笑」「咬傷」「工商」「鉱床」と17項目も載っている!
誠の文を目にすることの有り難さに思いを馳せます。
聖書に記されている言葉ではなく、タイムリーに、イエスさまのお話を聞きたいものだ!
「肉体を持たれたイエスの話を、アラマイ語を理解しているわたしという設定で聞きたいものだ~!」
辛抱強く聞いていた神父の額に青筋はたつかと思いきや、
「僕はフランス語の聖書を持っています。日本語の聖書は持っているが、すらすら読めません。皆さんが聖書を読む言葉は聞こえます。理解できます。だけど、フランス語が第一言語です。」 (それがどうした?)
に、神父はこう言うのである。
「日本に来たおかげで、僕は聖書の素晴らしさを知りました。 聖書には、1つの文章に番号があります。引用しなくてもインデックス(付箋)となります。言語が違っても、素晴らしいシステムです。 君たちがフランスの教会に来て、ミサに参加します。目次さえ判れば、あとは数字、番号で日本語の聖書を開きながら、フランス語の朗読も理解できるでしょう。これは、神の恵みです。」
そして、続けるのである。
「『イエスさまがおられない!』と何度も言っているようですが、イエズスはおられます!エマオに現れたイエスの話(ルカ24,13―35)は知っていますか?」
「エマオでのお話は、イエスさまの弟子が師を見たってことでしょう?」
そして、神父さんは話すのである。
イエスに生きているうちに会いたいと願いながらも、タイミングが悪く、会えなかった男の話を。
絵本になったそうだが、男が天に召される前に教会の鐘が鳴った。
だが、イエスがイスラエルに肉体を持っておられた時に、「キリスト教」もキリスト教の教会もなかった。だから考証的には史実的にはおかしいのだが…
そこに天使が現れ、
イエスに会いたいと願ったが、突発的にやぼ用が入り、人助けをし、参集しようとすると運悪く、イエスはその街を発った後だった。 せめて、ゴルゴタの丘での十字架を背負われるイエスの姿を一目でも見たいと願ったが、老婆を助けている間に…。で、駆けつけると、イエスは十字架から降ろされた後だった。
そんな男に天使は言うのである。
「あなたはもうすでに主イエスに何度も会っていますよ!」
ブログ掲載可の画像
その後、クリスチャンに肉体を持たれたイエスにお会いしたいと願いながらも出会いを持てなかった男の話をしたところ、『4人目の博士』の伝承として、渡辺和子さんが書かれた物語を見せてくださった。
要約すると、
実は、3人の博士の他に、もう1人、星を見て、医師の仕事も妻子も捨て、全財産を売り、赤子イエスに捧げるために、高価な真珠を求め、ベツレヘムへ旅立ったアルタバル。 アルタバルは、道中で病人を見かけ手当てをしてやり、他の3人の博士に遅れてしまった。ベツレヘムに着いた時には、イエスの家族はナザレに向かった後であった。
アルタバルはイエスを追って旅をしますが、その行く手にはいつも、病人、生活ができずに悪事を働く人々がいた。アルタバルは、彼らに惜しみなく手を差しのべ、共に生活をした。そうして30数年が過ぎた頃、 「イエスが十字架につけられる」この報せに、すでに年老いたアルタバルは、これを最後の機会と、肌身離さず持っていた真珠を手にカルワリオの丘に向かった。それなのに、その途中、また哀れな女と出会い助けるために、真珠を手放してしまうのです。イエスは十字架上で息を引きとります。
嘆き悲しむアルタバルに、イエスが現れ、優しく言うのでした。
「お前は私に逢えなかったというが、何度も何度も逢っていたのだよ。私の小さい兄弟姉妹の一人にしてくれたことは、他ならない私にしてくれたのだから。」
渡辺和子さんのコラムを、仏教の僧侶に教えました。
「アルタバルは、光明皇后様のようなお方ですね!」
奈良時代の聖武天皇の妃で、藤原氏の娘で民間初の両親が皇族でない皇后。 地震、疫病、飢饉、反乱のオンパレードの混迷にあって、光明皇后は仏教に帰依し、公共事業を始めます。東大寺、国分寺の建立、興福寺、法華寺、新薬師寺など、多くの寺院を整備し、貧しい人たちに施しをする「悲田院」、病院の「施薬院」を造り、慈善事業に尽力。 伝説の域を出ませんが、光明皇后がライ病人の膿を口で吸い出したら、紫雲がたなびき、ライ病人は黄金の光を放ち、消え去った。阿閦如来(あしゅくにょらい)だった。
マザーテレサも、「病める子は病めるキリスト飢える子は飢えたキリスト」とおっしゃっていましたね。日本では、蟻の町のマリアこと北原怜子(さとこ)さん、ハンセン病人に尽くされた井深八重さんがおられますね。 なかなか、目のうつばりを取り除くことは難しいものだ。
ボランティア、善行を施している方々は、無条件で尊敬するが、クリシュナムルティは、「自らを知ることだ。自らの内に分け入ることだ」と徹底した自己知を訴えた。
わたしは、口先だけで高尚なことを言い、行動しない人が大嫌いであるが、名知さんの話を聞いた今は、クリシュナムルティの「個人の変容が社会の変容である」が身に染みた。
(クリシュナムルティのスキャンダルは、彼が有色人種、インドの言葉を忘れ、中途半端に白人社会に受け容れられたこと、『キリストが内に入っている』と称されながらも、献身的、慈悲深い面が弱さとして出たのが原因だったと思う。)
名知仁子(さとこ)さんは、国境なき医師団の医師で、ミャンマーのカレン族やロヒンギャ族に医療支援をされてきた方。ミャンマーでは国民の70%が農村で暮らし、上水道が使える人々は10%と言われる、民族、宗教の対立もある。無医村の医療巡回、保健衛生指導の活動をされています。これだけでも素晴らしい、感動なのに、ボランティアが定着しないことに対して、「来る者は拒まず。去る者は追わず」(辞めてゆくなら仕方がない) (忙しいから続かない。それぞれの事情で離れていったこと)と考えていたようです。
でも、自分ひとりではできない。関わりの鋳型を変えようとしたところ、協力者はいたそうです。自身の大病で進退きわまった時もある励ましの一言で、道が見えたそうです。
神の摂理として、導かれている。
彼の地、カナンの地はどこにあるのだろう。どこへ向かうべきか…