迷惑をかけるとは…

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 何も持っていなくても与えることができるものがあります。
仏教で「無財の七施」
一.眼施: 優しいまなざしで接する。
二.和顔悦色施: 柔和でにこやかな顔を向ける。
三.言辞施: 愛語 思い遣りの優しいきれいな言葉をかける。
四.身施: 身体を使って 人の役に立つ。
五.心施: 心遣い 心を配る。
六.しょう座施: 困っている人に席や場所を譲る。
七.房舎施: 旅人に宿を提供する。お遍路さんを家に泊める。

「ギブ&ギブ」を説く仏教だが 托鉢 浄財がある。

 迷惑をかける、とは?
 檀家さんのおかげで、法事をさせてもらい、生活できている。保護司を引き受けると、自分の力だけではなく、職とか探さないといけない。寺の1室を提供できても。これ以上、迷惑をかけられない。

 悟りを開かれたお釈迦さまでさえ、托鉢された。最期は、貧しき者が差し出した腐ったキノコでおなかをこわしたといわれる。
 お釈迦さまは「人生は甘美なものなり。(苦もあるが)」とおっしゃられました。
生かされている。
我(が)をドンドン捨てていく。


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 もう少し、掘り下げると、
 飼い猫は、何かをするわけではない。犬と違って、芸をしない。盲導犬も聴導犬も災害救助犬も警察犬にもならない。
他の人にとっては、発情期の鳴き声がうるさい。丹精こめた庭を荒らす、お天道様の下の道路を歩く犬と違って、コソコソ、すぐに隠れる嫌い、けしからんヤツかもしれない。
 猫のゴロゴロは、人の身体を癒す力があるそうだ。飼い主にとっては、かけがえのない、可愛い存在だろう。


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 真の報恩感謝とは、ただ単に神様に手を合わせてお礼を述べることだけではない。それじゃ、困った時の神頼みではないか~!それだけでは一時的な感情の高まり、高揚感で終わってしまう。真の報恩感謝とは、その感謝の想いを次の具体的な行動、実践へとつなげていく、具体的な言葉や行いでそれを生きていく。仏教の「無財の七施」の一から三は和顔愛語であり、四からは、献身、陰徳、譲与。
 ただ単なる自己犠牲的、滅私奉仕ではなく、自己の確立と世界、社会との調和を両立させることができる。言葉を変えるなら、それは境地の次元だろう。
そこに至るには、思うにままならないこの世界、忍土で、多くの未熟を抱えているのに、それでもこのように生かされている。凡夫、自分の足りなさ、愚かさを知る。それは、「自分は何でもできる」「自分1人でできる」その傲慢さ、それは、自分がまだ発展途上であること、成長ののびしろがあることに目を向けるのではなく、完成版、自己完結であろうとする。
 でも神様はこのような私たちでも愛してくださる。“Jesus te ama. Jesus me ama.”イエスさまは君を愛していますよ、主は私を愛されるとよく言っていた。ただ、それを言う時が、学生が授業に集中していなく、ざわざわしている時だった。こめかみにしわが寄りそうで、怒るだろう、文句を言うだろうと思った時、この言葉を口にした。スペイン語を真面目に勉強している人が、「なぜ、quiereではないのですか?」と質問し、授業は通常に戻った。一度も声を荒げたことがない北部のガリシア出身のシスター。怖くないので学生はリラックスし過ぎていた? だが、スペイン語の発音はゆっくりと明瞭であった。退職され、今はマドリードにおられるそうです。
私たちがいかに愛され、支えられているかを知る道のりなんだな~。そしてそれを自覚する時、私たちは導かれるのであろう。
 そして、元気に明るく歩みを続けることができるのではないだろうか。


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